KLEIN定点観測
KLEIN(クライン)のバイクに関する様々な話題を紹介します。
2005/11/07
AND 新型パーツ開発
ANDのウェブサイトが更新されていました。
→AND
この中で、 オールドのKLEIN/STORCK専用 Hollowtech II Cartridge BBシステムが発表されていました。
専用圧入工具、専用セットアップが必要で、価格は¥17000 とされています。
http://www.wink.ne.jp/~and/prt1.htm
構造はResetのものに似ているようです。なるほど、、、アプローチは同じようだ。このように執拗に開発を続けるANDに、喧噪社は敬意を新たにするものだよ。がんばるねー!
ニュースで取り上げるのが遅れてしまって、スマン。>AND
最新のオリジナルパーツなどを搭載したと思われるコンプリートバイク KA7rx Falconを開発中とのこと。期待大ですな。
2005/10/14残された人々
たまには明るいニュースを書いてみたい。
ワシントン州オリンピアという町で、クラインのシェへイリス工場を解雇された人たちが作った小さな会社が、その技術を生かしてバイクを作っているようだ。
The Olympian紙のウェブサイト版2003年11月28日付け号である。
かつてのクラインの従業員、James Holland氏とEric Kackley氏がVolcanic Manufacturing社を設立し、クロスカントリーモデルのMTB「Peak」の生産を始めていました。Kackley氏はオリンピア市内でPeak Adventure Sportsというアウトドアスポーツショップを共同経営しており、そこで売るためのバイクだそうだ。
写真を見る限り、ホリゾンタルに近いトップチューブをもつアルミ製ハードテールバイク。ファットチューブだし。よく見ると、ディスクブレーキマウントもついている、近代的なバイクだ。(いまはリンク切れのため写真を見ることはできませんが)
このPeakを基にしたモデル「The Enforcer(法執行官=検察官とか警察官のイミ)」は、地方警察の「サウスサウンド法執行バイクパトロール」に採用されるかもしれない、とのこと。軽量さと頑健さを兼ね備えたバイクとなる見込みだそうだ。
かの地では、バイクパトロールは車上荒らしやこそ泥など対策に効果的とされており、パトロールカーとともに使われることも多いとのことです。
こうしたところでクラインの遠い親戚がいるのですね、、、
解雇にもめげずに、クライン工場で得た技術を使って、その地方にぴったりのバイクを作るなんて、なんて素敵なことでしょう、、、?
しかし、ウエブサイトもないのでアレですな、詳細を知ることもままならんのは残念だ。おそらく、ミニミニな会社なんでしょうね。
このようにタフなバイク、オレ的にはエンデューロ用として欲しいくらいですけどな。
その後、The Olympian紙のサーチ機能を使って調べたところ、2004年半ばまでは確かにVolcanic Manufacturing は存在しているようだ。ワシントン州を訪れた際には確かめてみたい。
2005/08/272006年モデル発表(速報)
日本時間の8月26日、Klein Bikesのウェブサイトで、2006年モデルが発表されていました。主な内容は次の通り。
【考察】
残念なことに、パロミノがカタログ落ちしました。同時に、Maverickのフォーク装着車もなくなっている。それ以外のモデルにはほとんど変更といえるような変更はないように思える。つまり、2004年6月以降、トレックはクラインに対し、ほとんど開発投資を行っていないことを示している。
このことから、クラインの事業は、さらに縮小が進むと予想せざるを得ない。同じトレックグループのGary Fisherのバイクラインナップの充実ぶりに比較して、現在クラインがおかれている現状は、あまりに恵まれていないのだ。
なぜ、トレックは、フィッシャーには相当の投資をしているのに、クラインにはほとんど投資しないのだろう。もはやトレックにとって、クラインは魅力あるものではなくなっているのだろうか?
その理由をトレックの首脳にきいてみたいもんだ。
なお、2006年カタログももうpdfで入手可能となっていますが、その中にはGary Kleinという文字は1回も出てきません。
2005/08/14Chehalisの発音について
かつて、クラインの工場があり、いまでもゲイリー・クラインが住む、ワシントン州Chehalis。
いままで、Chehalisという固有名詞を、どのように発音するかについては、いろいろ説があった。喧噪社では「シェヘイリス」説をとってきました。
これに対し、「チェハリス」だ、いや「シェハリス」だ、などといろいろ異論がありました。
かつてはクライン・ジャパンのウェブサイトでも、チェハリスなんて書いてましたが、、、
http://www.stevensauke.com/say/northwest.html
これは、米国・カナダ北西部の地名の発音について調べたページです。作者はモンタナ出身のSteven Saukeさんだ。
さて、本題。ワシントン州のChehalisについては、このように示されている。
【Chehalis sha-HAY-lis】
このうち、小文字のa音はアとエの中間音なので、カタカナで表記すると、shaはシェまたはシャ。続いてHAYはヘイ、lisはリス。つまり、シェヘイリスあるいはシャヘイリスとなるわけだ。アクセントは、HAYに置かれます。
以上より、喧噪社では、従来通りシェヘイリスと表記することとしたい。
2005/07/27
暑中特別企画 WEB紀行 シェヘイリス工場を訪ねて
今はもう失われた、ワシントン州シェヘイリス工場。今回は、ここを探訪してみたい。しかし、物理的に行くには、成田から飛行機に乗る必要がありますね。今回はお金もないので、仮想的に探訪してみることにしたい。
terraserver-usa.comのサービスを使って、工場上空から撮った航空写真を見ることができます。この地域の写真は、1990年に撮影されたもの。つまり、アティチュードやラスカルの販売が開始され、いよいよクラインの独自性に脂がのってきたころですな。
シェヘイリス工場は、118 Klein RD. Chehalis, WAという非常に分かりやすい住所にあったので、MapQuestの地図情報と併せれば、すぐにその位置を特定することができます。
地図情報
http://www.mapquest.com/maps/map.adp?searchtype=address&country=US&addtohistory=&searchtab=home&address=118+klein+road&city=chehalis&state=wa&zipcode=
航空写真
http://terraserver-usa.com/image.aspx?T=1&S=11&Z=10&X=1287&Y=12883&W=3http://terraserver-usa.com/image.aspx?T=1&S=10&Z=10&X=2574&Y=25767&W=1
これが工場を上空から見た写真です。
シェヘイリスの市街地からはけっこう離れたところにあります。横道(すなわちKlein Rd.)を入っていくと、工場が現れる、、、そんな感じ。工場の敷地の南には森が茂り、ここでゲイリー・クラインがシングルトラックテストを行った、であろうことも納得できる。よくみると、ジープロードのような道も森の中を走っているのがわかります。
残念なことに、これ以上拡大表示しても、あまりよくは見えません。もうすこし解像度があれば、工場の外見などもわかるんでしょうがね。でも、広大な駐車場が見え、メインの四角形の建物の左側にもなんらかの施設があるのがわかりますな。
さらに、topozone.comによれば、標高・経緯度の情報も得ることができます。やっちょらんけどな。
2005/07/05
クラインの軌跡(まとめ)
前回まで連載した「クラインの軌跡」をまとめたページを作成しました。
2005/06/26
クラインの軌跡(了)
【10 主宰の考え】
いままで書いてきたように、クラインは一時代を画したことは確かだ。しかし、それは比較的短い時期だった。具体的に言えば、1987年から1995年にかけてだろうか。
それ以前は、資金不足にあえぎながら、ごく少量を生産するメーカーとしてであり、それより以後は、大企業の傘下として活動しているわけだ。むしろ、ごく普通の、典型的な小規模バイクメーカーとしての時期が長いことがわかる。
クラインが独立企業として花開いたのは、わずかに8年くらいだったわけだ。案外短かった。まさに、オールドクラインの栄光は、独自規格が招き、その終焉もまた独自規格が招いたといえる。このことから、オールドクラインとは、独自規格と同義であるといっていい。
----------------------------------------------------
結局、ゲイリー・クラインの20年にわたる事業は失敗だったのだろうか?
たしかに販売面・資金面でつねにハンディキャップを抱え、財務的に成功したとはいえなかった。その結果、最終的には独立企業としてのクラインは消滅したのだから。
しかし、こうも考えられるだろう。トレックによる買収以後は、トレックの強力な販売網のおかげでクラインの名が売れ、品質をある程度保持したまま、価格を下げることができた。このことはゲイリー・クラインの「高効率バイクを作る」という思想を、販売台数の面で世界に広めることになったわけで、その意味では成功だったともいえる。
その結果、クラインは「他のバイクと同じく高機能なバイク」を作ることができるようになった。
また、クラインは、最盛期の8年の間に、バイク界に対し、様々な提案を行った。それはアルミによるファットチュービングであり、メンテナンスフリー思想であり、インテグレーテッドヘッドであったわけだ。それらは、現在、ほとんどすべてのバイクやバイクパーツに取り入れられているのだから、その意味ではゲイリー・クラインの勝利だったともいえる。
似たようなバイクがあふれる現代の状況で、最も必要とされているバイクとは、どんなバイクだろうか。個人的には、それは他の追随を許さなかった、あの時代のクラインのようなバイクではないだろうか、と思う。
あまりにも独特で、他と比較できず、トラブルメーカーであり、ある意味クレイジーだった。だが、前例を踏襲せず(そもそも、MTBとは、前例を踏襲しないところから始まったものであった)、天才的なひらめきと論理的な思考という、じつに相反するものの融合した、奇跡的なバイクではなかったか、、、
それはゲイリー・クラインに才能と幸運が開花した、限られた瞬間が生み出したものだったかもしれない。
----------------------------------------------------
主宰としては、トレック傘下にあっても、ふたたびクラインが、「他のバイクと同じく高機能なバイク」ではなく、「他の追随を許さない、独特かつ高機能なバイク」を作るメーカーとなることを望んでいる。
そして、ゲイリー・クラインに、あの8年間のような、才能と幸運がともに訪れる時期が、ふたたびやってくることを望むことにして、この稿を終わることにしよう。
----------------------------------------------------
※バイクの歴史上の間違いについてはご指摘ください。もし、さらに詳細を知っている方がいれば教えていただければ幸いです。
2005/06/10
クラインの軌跡(8)
【9 2005年現在の状況】
その後、クラインバイクはウィスコンシン州ウォータールーで生産されている。その後もゲイリー・クラインは社長としての地位を保っている。2005年モデルのサスペンション付きロードバイク・レヴを開発したほか、マーヴェリックからライセンスを購入し、フルサスペンションMTBパロミノを開発している。バイク自体は2002年モデルからは従来の6061アルミに換え、ZR9000というアルミ新素材を投入し、より頑丈に、軽量に、高機能となっているということだ。
そう、他のメーカーの作るバイクと同じように。クラインは、トレックの戦略下で、高級な塗装をまとった丁寧な溶接を行ったバイクとして、その役割を果たしている。
2005/05/23クラインの軌跡(7)
【8 トレック戦略の影響】
その後、しばらくの間、シェヘイリス工場は、トレックの指示の元でバイク製造を行ってきた。この期間は、独自規格が薄められた以外は、従来どおりのクラインバイクであったといえる。しかし、1999年モデルでは、他のメーカーのように、ビードのある、簡略化された溶接方法とするよう指示を受けた。それは、おそらく、コストダウンのために、、、しかし、2000年モデルでは以前のようなスムーズな溶接面に戻っている。
2001年ころ、シェヘイリスでは、ポール・ターナー「マーヴェリック・アメリカン」の委託で、デュアルサスペンションのフレーム500本分の生産(クラインジャパンのウェブサイトからの情報)を行っている。ターナーは、しくも、かつてクラインを販売不振に追いやった原因の一つであるサスペンション・ロックショックスの生みの親である。
2001年11月、トレックから衝撃の指示が出された。それは、2002年2月にシェヘイリス工場を閉鎖するというものであった。トレックの発表によれば、希望する従業員はウィスコンシン・ウォータールーのトレック本社に移ることができた(Mountain Bike Action誌はそのオファーの存在に疑問を呈している)。
結局、何人がウォータールーへ異動したかはわからない。ともかく、2002年2月、予定どおりシェヘイリス工場は閉鎖され、ワシントン州セントラリア地域における60人あまりの雇用は消滅した。このときをもって、クラインは独立会社としての形態をほぼ失い、完全にトレックの一ブランドとなった。そして、2002年5月、シェヘイリス工場に残されていた溶接機材・塗装機材・什器などはリアルエステート・オークションにより処分された。20年あまりにたって存続してきたシェヘイリス工場は、ここで終末のときを迎えたのだった。
2005/05/01クラインの軌跡(6)
【7 トレックによる買収】
1995年10月、ついにゲイリー・クラインはある決断をした。それは、自らの会社を、米国最大のバイクメーカー・トレックに売却することであった。同じころに、トレックはゲイリー・フィッシャー、ボンレーガーの買収も行っている。さまざまなMTBのレジェンドたちを吸収することで、トレックは業界での地位を向上させようとしていた。クラインはトレックの戦略に乗ったのだった。このとき、もしトレックのオファーがなかったら、現在、クラインというブランド自体、存続していなかったかもしれない。
トレックは当初、ゲイリー・クラインをKlein Bicycle Corporationの社長とし、シェヘイリス工場も存続させる方針としていた。ゲイリー・クラインは当面、人事や経理から解放され、開発に専念することができる、と思われた。しかし、以前のような活発な開発と、独自規格の追求は、もはや許されるものではなかった。
まず、トレックが行わせたのは、圧入BBの廃止と、デュアルサスペンションバイク・マントラの工程簡略化である。これにより、マントラは直線的なメインチューブとなり、非常に単純な形状のバイクとなった。また、買収後に開発された1997年モデルのアティチュード・アドロイトには、もはやストラータ(またはユニクライン)フォークが装着されることはなかった。
このころ、それまでクラインの技術面を牽引してきた技術担当副社長ダリル ・ヴォスも退社している。
なお、1996年モデルから98年モデルまで、販売量を稼ぐために、ウォータールー(トレック本社)で生産されたハードテールバイクが、パルス(新)として、クラインのデカールを貼って販売されている。
2005/04/19
クラインの軌跡(5)
【6 財務状況の悪化】
1993年秋、ある事件が起こった。それは、1994年モデルとしてクラインが発表した全く新しいシートポスト固定システム「ジップグリップ」が引き起こしたものであり、クラインの経営の根幹を揺るがす問題に発展していった。
ジップグリップとは、エアヘッドのコレットシステムをヒントに開発されたもので、シートチューブの開口部に、回して締める金具がついたシステムであった。つまり、この金具をゆるめたり締めたりすることで、シートポストの締め付けが工具なしでできる、という機能が売りであったのだが、ジップグリップの固定力が弱く、シートポストが回転してしまうことがあるということが判明したのである(未検証だが、85kg以上の体重の場合、固定力を保持できないという情報がある。)。
これは非常に危険な欠陥であったことから、クラインは全ての出荷済みのジップグリップモデルをリコールしなくてはならなかった。リコールに要した経費がクラインの財務状況を圧迫していった。
これに加え、1990年にロックショックスがフロントサスペンションを発表して以来、スポーツMTBには、フロントサスペンションが装着されるのがトレンドだったにもかかわらず、クラインが本格サス対応バイクとして用意していたのはパルスだけであったことも問題であった。主力モデルのアティチュード・アドロイトにもサスペンションを取り付けることは一応可能だったが、使用可能なサスは限定されていたため、少数のユーザーの手に渡っただけだった。また、後に高性能のサスが発売されても、交換することは難しかった(2005年現在は独Reset社のパーツによりオーバーサイズ変換アダプターが提供されている)。こうして、サスペンションを欲するユーザーは次第にクラインから離れていった。
また、全てのバイクに独自規格の圧入BB(クライン・プレシジョンBB)を採用していたことから、汎用のBBが使えず、最新のクランクに対応できなくなってきていたことも、ユーザーのクライン離れの原因となっていった。
こうして、クラインの販売量は1994年から1995年にかけて減少していった。クラインは、フルサスへの対応の遅れを取り戻すべく、1995年秋、フルサスペンションバイク マントラ・プロを開発したが、凝った独自ユニットなどの採用により、当然、高価格であり、また、ヘッドセットやBBが独自規格だったことなどから、販売数は限定されたものだった。
クラインは、次第にユーザーの支持を失いつつあった。
2005/04/09
クラインの軌跡(4)
【5 第2世代への発展】
ゲイリー・クラインとダリル・ヴォスの指揮のもと、活発な特許出願を行っていたクラインは、満を持して、そのラインアップを第2世代に移行させることとなった。1992年秋、クラインはMTBのアティチュード・アドロイト、ロードバイクのクアンタム・プロに、全く新しいヘッドセット「エアヘッド」、MC-2というステアリングシステム、マイクロドロップアウト、グレーディエントチュービングなどの、画期的な新機軸を与え、93年モデルとして発表したのだった。
これらバイクは、開闢以来この世に現れたバイクとは、本当にまったく違っていた。そう、なにもかもが!
塗装もさらにグレードアップされ、蠱惑的なものとなった。なにより、バイクに付けられたプライスタグに誰もが驚くこととなった。また、パルスは、サスペンション対応ジオメトリー、コンベンショナルなオーバーサイズヘッドを採用し、将来のミッドレンジのバイクの主力としてセールスが期待されており、エーアラスについてはトライアスロン用バイクとして新たな道を切り開いたものだった。
また、このころ、クラインはトレードチームONCEの依頼を受け、ツール・ド・フランスの山岳用ロードバイクの製造を委託されている。これはクアンタム・プロをベースにした通称EPGクアンタムと呼ばれるスペシャルモデルであり、その超軽量性からオファーを受けたものである。ローラン・ジャラベールやアレックス・ツッレ(ツーレ)らがEPGクアンタムに乗って戦ったとされている。
このとき、ONCEは、軽量に仕上げるため塗装は不要としたが、ゲイリー・クラインは「アルミバイクには素材特性上、塗装は必須である」という自らの考えを通し、EPGクアンタムを白色に塗って納入した。よくあるOEMのスペシャルバイクでは、ロゴは正規供給メーカーのものに差し替えられることがあるが、EPGクアンタムのダウンチューブにはきちんとKLEINロゴが記されていた。
こうしたことから、バイク乗りの間でのクラインの評価は、「独特であるが、非常に優れている」という、特別な地位を獲得しつつあった。
このように、クラインの前途は洋々のように見えたが、セールス基盤の弱さと資金面の問題は、いまだ解決をみていなかった。
2005/03/29
クラインの軌跡(3)
【4 モデルラインの拡張と問題】
クラインに対して、ユーザーからの要望は次第に高まっていった。クラインはこれに応え、次第にロードバイク、トレールバイク、XCバイク、ハイブリッド、女性用ジオメトリーのロードバイク、トライアスロンバイクと、モデルラインを増やしていった。中でも、肉抜き加工、専用のフォークとチューブ(いずれもボロン・カーボンで補強していた)を与えられたMTBの旗艦モデルがアドロイト(アドロワ)である。
しかし、クラインは大きな問題を抱えていた。それは、セールススタッフの不在と、資金不足である。クラインは多数のモデルラインを抱えるようになったが、これらを売りさばくために用いていたのはテレ・マーケティングと呼ばれる手段だった。つまり、各地のディーラーと電話やファクスで連絡をとり、品を納入する手法である。国土の広い米国では一般的な手段だが、大手メーカーの豊富な人的資源を活用した細やかなセールスには、どうしても遅れをとってしまったことだろう。
そして、業界で独自の地位を占めたとはいえ、その生産量は大手メーカーに比べれば微々たるものであり、技術開発にけっこうな資金を必要としていたことに加え、いかにアドロイト(アドロワ)が素晴らしいバイクだったとはいえ、スポーツバイクのフレームのみに3000ドルを費やせる人はごくごくわずかだったろう。
このため、クラインは慢性的な資金不足に悩まされていた。こうしたセールス面と資金面での弱点は、独バイク誌のゲイリー・クラインのインタビューでも示唆されている。
2005/03/19
クラインの軌跡(2)
【2 独自規格への指向】
その後、しばらくの間、クラインはなかばオーダーのような形態で、数種類のロードバイクの製作を行っていた。
一方、1970年代前半ころから、米国西海岸では新たなムーブメントが始まっていた。そう、ゲイリー・フィッシャーやジョー・ブリーズらによって紹介された、マウンテンバイクという、まったく新しいスポーツである。最初はクランカーと呼ばれた無骨なバイクは、ブリーズやリッチーの手により洗練されたものへと変わっていき、1981年には、マイク・シンヤードのスペシャライズドが世界初の量産マウンテンバイクを発表し、次第に、世界にマウンテンバイクが浸透し始めていた。
こうした状況を受けて、クラインもまた1983年に自社として初めてのマウンテンバイク、Mountain Kleinを発表したのである。クラインにとっては、これがある種の転機となった。Mountain Kleinで採用されたのは、アルミフレームはもちろんとして、内蔵ケーブルルーティング、角断面チェーンステイ、圧入式BBである。
内蔵ケーブルルーティングについては、泥による障害から変速伝達系を守るためのものであり、角断面チェーンステイは効率の良さと頑健さを両立させるものだった。そして、圧入式BBはメンテナンスフリーを実現していた。こうした特徴は、のちのクラインのマウンテンバイク、ロードバイクに受け継がれていく。
【3 独特なメーカーへの成長】
このころ、ゲイリー・クラインとともにバイクの開発を行っていたのが、技術担当副社長ダリル ・ヴォスであった。ゲイリー・クラインは彼とともに、様々な独自技術を開発し、活発な特許取得活動を行っていった。その中には、極太のアルミフォーク・ユニクラインフォーク、今でも使われているタイヤパターン「デスグリップ」や、有名なバー・ステム一体型コンボ「ミッションコントロール」などがある。
こうして、クラインは、バイク界において独自の位置を獲得しつつあった。つまり、すぐれた独自規格をもち、軽量であり、頑丈であり、メンテナンスフリーであり、独特の塗装をもつ、他のバイクとは全く異なるルックスの高性能バイク、という位置づけである。こうした特徴に共鳴する熱狂的ユーザーが次第に増加していった。
なかでも、ドイツのクラインのディストリビューターだったマーカス・ストークは、クラインへの傾倒のあまり、クラインの特徴(マイクロドロップアウト、圧入BB)を取り入れた自らのバイクStorckを製作したほどだった。後に、マーカス・ストークはクラインから離れ、ドイツで独自のバイクを作り始める。
2005/03/01
クラインの軌跡(1)
公式的には、ゲイリー・クラインとはこのような人物であるとされる。
http://www.kleinjapan.com/at_klein/gary_story.html
あるいは、「マウンテンバイク殿堂」によれば、こうだ。
http://www.mtnbikehalloffame.com/inductees.cfm?page=99&mID=41
「マウンテンバイク殿堂」による略歴(1992)
1974年のMIT(マサチューセッツ工科大学)の卒業生であるゲイリー・クラインは、現在、アルミニウム・バイク・フレームの製作を行うクライン・バイシクル・コーポレーションの社長である。ゲイリーはアルミフレームの最初期の発明者の1人であり、当初、カリフォルニアで事業を開始している。クライン・バイシクル・コーポレーションは現在、ワシントン州シェヘイリスにある。 ゲイリーは家庭人であり、ビジネスに有能なだけでなく、the International Mountain Bike Association(IMBA)の評議員の一員でもあり、the bike committee for Leagues of American Wheelmen (LAW)のメンバーでもある。また、NORBAでも活動しているほか、エンジニアリングの観点からThe Bicycle Federation of Washingtonや、The Wilderness Society、The World Wildlife Fund、the Nature Conservancyでも活動している。 クライン・バイシクルの成功は、ゲイリー自身の「仕事を楽しむことの重要さ」という哲学に帰するであろう。クラインは自分自身が使いたいと思うものだけを製作することで、その製品に、長年にわたる価値を与えているといえるだろう。
なるほど。一方は会社紹介みたいだし、もう一方はちょっと情報が古い。
ここからは、数回に渡り、いままで弊社が集めたクラインについての情報と、半ば想像を交えて、ゲイリー・クラインの軌跡を辿ってみることにしよう。
【1 はじまりの頃】
ゲイリー・クラインは米国テキサス州クリーブランド郊外の農場に生まれた。最初のバイクはタイヤの太い「コロンビア」だったという。その後、両親とともにマサチューセッツ州ニュートン、そしてカリフォルニア州パロアルトへと移住した。そのころはチェスとテニスが好きな少年で、特にバイクにかける情熱はなかったようだ。
1970年、彼はカリフォルニア大学デイビス校に入学した。キャンパスは自動車やオートバイの使用が禁止されていたこともあり、彼は次第にバイクに興味を持つようになった。その後、MIT(マサチューセッツ工科大学)に転入することになる。そのころ、Fujiのロードバイクでレースに出るようになり、学内の学生向きバイクショップを動かすようになった。
そして、在学中の1973年に2台のアルミニウム製バイクを製作した。それは学業の一環、研究として、もっとも効率の良いバイクフレームを作るという目的をもって行ったものである。彼は、大学時代はロード競技の選手として活動していたことも知られていることから、自分の趣味を生かして研究を選択したといえる。
その後、ゲイリー・クラインはMIT Innovation center の事業として、Jim Williamsほか1名の学生と、教授1名とともにKlein Bicycle Corporationを1975年に設立した。
こうして、世界初のアルミニウム製のスポーツバイク会社が勃興したのだった。Jim Williamsとゲイリー・クラインは、ほかのメンバーからビジネスの権利を買い取り、2人で共同経営をすることとなった。彼らはゲイリーの両親から借金をし、カリフォルニア州サン・マーティンに移った。ゲイリー・クラインの両親が持っていた昔の果樹園の排水機場が仕事場として使えたからである。
しかし、しばらくの間は貧しい時代が続いた。そのためJim Williamsは共同経営からはなれて行った。フレームの売れ行きは芳しくなかったため、一時はバイク製作を止め、エンジニアリングの職を探し始めたほどだったが、最後の切り札としてフレームの価格を325ドルから 575ドルへと上げてみた。顧客はどうやら、もっと手の込んだフレームを欲している、、、そう気づいたのである。次第に注文は増え、フレームは2000ドル程で売れるようになった。
そして、1980年、西海岸のワシントン州シェヘイリスに移転した。移転の理由はわからない。
(以下次号)
2005/02/15工場最後の日
http://www.murphyauctions.net/kleinbicycle.html
これは、2002年2月にクラインのシェヘイリス工場が閉鎖された後、2002年6月5日のオークションに出された品々です。オークションはシェヘイリス現地で行われたようです。リアル・エステート・オークションというやつだ。
各種の工作機械などがたくさん出品されています。オフィス家具や、フォードF150ピックアップトラックや大宇のフォークリフトまでも。その中には、あの美しくも不思議な溶接をしたであろう
MILLER Syncrowave 300amp welder
MILLER CP5VS 500 amp welder
MILLERMATIC 10A wire feeder
などの溶接機や、たくさんのバイクを塗装したであろうpaint bake oven なども含まれています。
おそらくは、このとき、クラインはほとんど全ての工作機械を売ってしまったのではないでしょうか。ということは、これにより、もはやシェヘイリスのクライン工場でバイク生産を行うことは不可能となったと思われます。そして、ゲイリー・クラインが単独で事業を構築することも不可能となったのではないか、、、
オレにとってはショッキングな事実ですな。
これらの工作機械が誰に落札され、どこへ送られ、今、何を製作するのに使われているかについての情報を得ることはできませんでした。
しかし、逆に考えれば、こうした工作機械と、シェヘイリスで熟練した溶接技術者・塗装技術者をそろえれば、かつてのクラインのようなバイクを作る「環境」だけは作ることができる、ということではないか、、、夢ですか?
マーカス・ストーク、シェヘイリス工場を買えば良かったのに、、
ともかく、シェヘイリス工場の本当に最後の日は2002年6月5日ということになるのではないか。弊社はその日のことをずっと忘れないこととし、シェヘイリス工場にあった品々の記録を電子的に保存しておくことにしたいと思う。
2005/01/28シェへイリス終焉
http://www.awb.org/cgi-bin/absolutenm/templates/?a=85&z=10
(ワシントン州ビジネス協会会長のコラムより)
これは2002年5月のコラムですが、同年2月にクラインのシェヘイリス工場が閉鎖されたときの生々しい状況が示されています。
「貴協会のメンバーシップとメーリングリストから、クライン・バイシクル・コーポレーションを外してください。工場は閉鎖されました。クラインの全ての生産は、親会社であるトレック・バイシクル・コーポレーション(ウイスコンシン州)に移転しました。」(ワシントン州ビジネス協会がクライン社から受け取ったe-mailより)
このことによって、シェヘイリス周辺では61人の雇用が失われたとありますが、シアトルの人口に換算すると数千人の雇用減少に相当するとのことです。
ワシントン州ビジネス協会会長は、シェヘイリスのあるセントラリア地域にとってのクラインの移転を、同じようにシアトルからシカゴへ移転したボーイング社になぞらえていますな。
気になる記述としては、「クライン社は、工場閉鎖の通知をワシントン州ビジネス協会に出したと同時に、ワシントン州の高級官僚に、あるメッセージを送っている」という部分。
それは、クラインがワシントン州を離れるのは、州の非競争的ビジネス環境のせいだというメッセージのようです。それは、つぎの3点。
(1)企業が負担する雇用保険料が高額であること
(2)被用者への補償額が州の単一規格で定められ、市場原理に沿っていないこと
(3)ワシントン州特有の、職場における人間工学的ルールが存在すること
多少言い訳めいていますが、、、
この情報からは、クラインは「地域の共同体の一員」から、「冷徹なビジネス社会の一員」になったことが読み取れますな。ワシントン州シェへイリスを本拠とした一地域企業としてのクラインは、2002年に完全に消滅し、大手バイク企業トレックの一歯車となったということだろう。
2005/01/07
新春放談(後編)
今回も引き続き新春放談。放談なので、好き勝手に書いたものです。内容については、ひろーい度量でごらんくださいね。
- 今後の願望
B:ところで、初夢として、こうあったらいいな、という希望はありますか?
A:あるよ!!(鼻息)それはね、ゲイリー・クライン自身が、トレックから離脱して、再びバイクメーカーを立ち上げることだ。
B:ええっ?
A:シェヘイリスに生産設備がもうないんだったら、心の弟子、マーカス・ストークに生産を委託するんだよ。
B:心の弟子、、、本当かよ、、? まあ、夢ですからね。で、どんなバイクを?
A:そうだなー、ハードテールはねー、93年アティチュードをベースに、コンベンショナルなオーバーサイズヘッドをもつバイク。これは頑丈だぞ。シングルバテッドだし。
B:あの、、グレーディエントチューブはやめちゃうんですか?
A:シングルバテッドだと、簡便な生産設備で製造が可能だからね。デフォルトではユニクラインのリジッドフォーク、ただしインターナショナルディスクマウントが付いているヤツな。ユーザーは状況に応じてサスに差し替えるわけだ。
B:一応、サスペンションとディスク対応な訳ですね。
A:リアエンドはピナクルエンドを肉抜きして使えばいい。
B:えっ?ピナクルエンドですか?
A:おう。逆爪だろ。これでディスクブレーキに対応できる。ピナクルエンドは大型なので、ラックマウントなどをつけるスペースもあるし、将来的にはツーリングバイクなども開発可能になる。あと、ユニクラインはサス付きにしたとき、ヘッドアングルがあんまり変わらないようにするために、全長を4センチほど伸ばしておいてね。現代のバイクとして、カンチレバーの台座は不要、としとこう。そのバイクの名称は、当然Adroitだッ!
B:、、、夢ですから、なんでも言ってください。
A:フルサスモデルは、MountainCycleのZEN、MongooseのTeocaliみたいなヤツな。あとオレの知識では思いつかん、、、今はプロペダルとかいいユニットがあるんだから、フレームを軽量化さえすればそこそこいいのができるんじゃないか。名称はPulse IIIがいいなー。
B:、、、はあ。他には?
A:いずれも、色は20色くらいからオーダーでき、ケーブルはフルアウター&ブレーキホース内蔵でな。中途半端はいかんね。
B:色はともかく、ディスクブレーキのホースを内蔵するのは、すごくめんどくさいのでは、、?
A:オレは内蔵加工が好きなんだよ、、、美しいだろ?美しいモノはめんどくさいもんだ。ANDがやったように内部にあらかじめ金属のパイプを溶接しておかないとだめかもね。
B:それは確かに。そっちのほうが整備性がずっといいですね。
A:あと、ジップグリップ、プレシジョンBB、エアヘッドは今回はやめてくれ。頼む!
B:オレに頼まれても、、、そんなに困っていたんですね。では、ロードバイクだとどういうのがいい?
A:ロードは1995年のクアンタム・プロをベースに、カーボンバックにするがよい。それだけでもう現代のバイクそのものだ。ヘッドはケーンクリークのインテグレーテッドタイプでね。
B:他には?
A:94年ころの旧アデプトのようなハイブリッドバイクも欲しいところだね。オンもオフもツーリングいけるというヤツ。700Cね。もちろん、ディスク対応でね。旧アデプトにディスクをつけるだけで、現代の700Cクロスバイクみたいだろう?
B:たしかに、、、やはりクラインは10年以上早すぎたんだ。
A:そう思うね。ようやく時代が追いついてきた。
B:でも、たとえゲイリーが自分でバイクを作っても、もうクラインという名称は使えないんだよね?
A:そうなんだよ、、、もうKleinという商標はトレックに押さえられてるんで、「Chehalis」とかいうバイクにするといいね。勝手だけど。Adroitの商標はまだクラインが持っているようだから、ぜひ復活して欲しいね。
B:でも、まるっきり夢にしか聞こえないところが悲しいね、、、
A:まあ、そういうなよ。もしかしたら1対999999くらいの確率で実現するかもしれない。
B:それって、限りなく無に近い可能性じゃないかな、、、?
A:むう、、、ところで、ゲイリー・クラインはいま、自分の境遇に満足しているのかね?
B:オレにきかれても、、、
A:さっきもいったけど、オレがゲイリーだったら、もうトレックに商標を完全に譲り、別の名前でバイクを作り始めるがね。
B:ひつこいなー。
- オールドクラインの現状
B:未来の話はひとまず、過去の話。オールドクラインを取り巻く状況はどうなっている?
A:意外なことに、悪くないね。というより、あきらかにいい状況。特に、Resetが最新規格のBBパーツを供給しているのが大きい。これにより、最近、全国各地で、休眠していたクラインを蘇らせる試みが起きているね。そんな試みについてのさまざまなメールを頂いているよ。Resetの存在はまさにオールドユーザーの命綱といってもいいね。
B:Resetの国内代理店ができたことも大きいようだが。
A:もちろんだ。MCインターナショナルには感謝の言葉もないね。すばらしい。オレもホローテックII用BBを注文しなくては、、、
B:オールドに不満な点は?
A:それはねー、やはりディスクブレーキ非対応な点ですね。これに尽きる。無理して改造すれば不可能ではないと思うが、、、ちょっと怖くて頓挫中。シートチューブにステーを固定するフローティング・ディスク(*2)形式であれば、ある程度は強度が稼げると思うんで、研究中だが、、、難しいだろう。
B:ファーバーを購入してからまる10年経過したが、まだオールドクラインに乗り続けるのかい?
A:昨年、オレはパロミノを注文したんだよ。結局入手できなかったが、、、けっして現代のバイクの価値を認めていないわけじゃない。なんでもそうだが、用途次第だね。エピックとか、下りメインのコースは、やはりフルサスだろう。フルリジッドのアティチュードでエピックに出てひどい目にあったからね。手のしびれが1週間取れなかったよ。
B:いつかはオールドに乗るのをやめる?
A:いや、ポッキリ行かない限り、やめないだろう。きっとシングルトラックではオールドに乗ってしまうんだろうね、、、
B:オールドクラインについて、心配なことはあるかい?
A:やはり金属疲労。アルミの場合は疲労が蓄積するそうなので、ちょっと心配、、、、ただ、オレのようなへっぽこライダーの使用状況ではそんなに金属疲労は影響しないという説もあるんで、、、まあ、問題の先延ばしだね(消え入るような声で)。
B:最近のオールドクラインのオークションの傾向はどう?
A:ヤフオクではぽつぽつ取引されているようだ。でも、よっぽど気合いが入っていないと、近代化するのはむずかしいだろうね。少なくともBB交換は必須だろうから、そこまでやる気のある人だけがリストアすべきだ。
B:そうでないと、また死蔵することになるわけだ。
A:そう。悪名高い床の間バイクだ。それだけは避けたい、、、あるだろ?飛行可能な状態で譲り受けたが、結局ノウハウが無くて再び飛行不可能な状態になってしまう、第二次大戦中の航空機かなんかが。アレと同じだ。
B:またヘンな例えですね。
A:でも、簡単にはリストアできないことが知られてきたのか、以前はけっこう高値で取引されていたオールドモデルも、最近はけっこうこなれてきた。リストアは面倒だし、オールドのデュレタン(*3)は色あせしてるのもあるし、そんなに高価なモノじゃないことが浸透してきたと思う。でも、まだちょっと高いなー。
B:オールドのユーザーになにかいいたいことは?
A:これからも何らかの形で乗り続けて欲しいね。いちばん乗って欲しいのは、やはり山。あっと、これはMTBの話な。オールドって、町中では単なる硬いだけのバイクだけど、山で乗ると全然印象が変わるんだよ。まあ、水を得た魚だね。
B:前にもそういってましたね。
A:あと、乗っていないオールドクラインがあったら、ぜひオークションなどの市場に出して欲しい。そうすれば、他の人が直して乗るだろう。そうして、少しでもオールドクラインの世界が広がればいいなーと思うよ。
B:床の間に置くなってことですよね。
A:あと、とにかくBBは交換したほうがいいんじゃないかな。現代のバイクとして使うには、9速化は必須と思うね。いまやResetのパーツがあるし、Quest日進などでも相談に乗ってくれてる。こうしたことから、オールドクラインを取り巻く環境はよくなっていると思う。オールドクラインに乗ってみたいと思っている人にとっては、いまが最大のチャンスかもしれません。
B:最後に一言。
A:とにかく、BBの交換と、9速化。この二つですね。二つで充分ですよ。わかってくださいよ、、、
(この項終わり)
(*2)Therapy Componentsから発売されているらしいが、画像はみたことない。インターナショナル等の台座を必要としないが、そのかわりシートチューブにバンドで固定するらしい。
(*3)オールド時代の塗料の名。
2005/01/03
新春放談(前編)
今回は1人の記者が書く「記者座談会」形式で、今後のクラインを占ってみたいと思う。なお、これは新春放談。放談なので、好き勝手に書いたものです。内容については、度量の浩瀚さをもってごらんいただきたいと思います。
部分的には、ムッとすることもあるかもしれませんが、新年のおめでたさに免じて許していただきたい。
と き 2005年1月2日
ところ 喧噪社本社応接ソファ
主宰A クラインの過去と未来を追跡する恒点観測員。
主宰B 主宰のもう一つの人格。控えめなツッコミを信条とする。
- 最近の動向
B:正直、最近のクラインについてどう思っている?
A:正直にですか。うーん、なかなか突破口が開けなくて困っているんじゃないかな。
B:というと?
A:パロミノなんだが、マーヴェリックのモノリンクの権利を買ってはみたものの、芳しくないのではないかな。というのも、、、
B:2005年はモデルラインが縮小されてしまった。
A:そう。わずか1グレード。フレーム売りも廃止した。今後、パロミノはどうなるのだろうか。実は、オレ自身、パロミノを来年の鳥海山エピックに使おうと思って、今年の秋に2004年モデルのフレームを注文したんですよ!
B:おおっ!
A:本当です。でも、10月の段階で、フレーム売りのXXのSサイズの在庫が無くて断念したんだ。ちょっと遅かった。
B:なぁんだ、、、縮小したってことは、売れてないのかな?
A:モデルラインを縮小するのは、売れていないからだろうと解釈するのが自然だ。MTBの主流となるフルサスモデルが低調というのは、あきらかに苦しいだろうね。だから、今後、クラインのMTBラインの課題はフルサスモデルの確保に尽きるだろう。
B:アティチュードはどうだ?
A:マイクロドロップアウトをやめ、逆爪式のエンドにし、かつカンチレバー台座を廃止してディスクのみの対応にしたが、これはこれでいい選択だと思う。ディスクは多少重くはなるが、山道では相当のアドバンテージがあるだろう。信頼度も上がっている。多目的バイクとして、簡潔な、いいバイクになった。
B:新機軸としてはその程度かな?
A:新機軸というものではないがね。
B:でも、新商品開発は依然としてやっているんだよね。レヴなんてそうだ。レヴはどう思う?
A:リアサスペンションがあり、マッドガードのマウントがついているのはロングライドに非常にいいね。センチュリーとかブルぺとかに最適じゃないか。まだ乗ってないけどね。ルックスもいいよね。
B:ただ、構造的にどうなのかね。
A:チェーンステイにピボットがない。つまり、チェーンステイがしなり続けている構造だ。このチェーンステイ、アルミだと思うんだが、折れないのかしら。でも、その辺はPL法の関係でクリアしているんだろう。どうやってクリアしているか、知りたいね。「通常の使用状況では折れない」という実験をしているはずだが、、、知りたい!(*1)
B:Q-proはどうだ?
A:ほとんど変更はない。まあ、いまのところ直す部分はない、と好意的に解釈したい。余談だが、インテグレーテッドヘッドセットの普及で、ほかのメーカーのバイクのルックスが、94-98QuantumProに似てきたぞ。やはり10年早かったね。常に先駆者は埋没するもんだな。
B:マーヴェリックの動向について、補足することはありますか?
A:定点観測にも書いたんだが、マーヴェリックはトレックに非常に近い行動をとっているね。パロミノをチームマーヴェリックで活動させていること、RC32フォークがクラインの標準フォークとして採用されたこと、、、興味深い。もしかしたらトレックとの間で、技術提携とか、資本提携とかが行われているのかもしれない。そうしたことと、パロミノの縮小は関係している可能性があるかもね。
B:まったくの憶測ですよね。
A:そう。憶測です。でも、いずれ明らかになるだろう。たとえば、こんな疑問もある。マーヴェリックはどこで生産しているんだろう?案外、ウォータールー(トレック本社)だったりして、、、まあ、憶測です。
- 今後の展望
B:今後のクラインの課題といったら、何だろう?
A:さっきもいったが、フルサスモデルが低調な点を改める必要があるだろう。ブランド全体のイメージにも影響しているから、早急にこの改善を行う必要がある。つまり、独自のフルサスモデルの開発が急がれるということだ。また、マーヴェリックシステムは、汎用のリアサスユニットではないので、その辺が欠点といえる。プロペダルとか、SPV、5th elementなど汎用品を使ったリアサスモデルの開発が必要だろう。そうしないと、ユーザーがアップグレードできない。
B:もうオリジナルのリアサスモデルは開発できないのではないかな?事実、96年のマントラ以降、レヴを除き、新たな独自提案はないようだが、、、
A:そういう悲観的な見方もある。だが、現代においてMTBを標榜する以上、フルサスはなんとしてもラインナップしていなくてはならないだろう。
- 買収後8年
B:96年にクラインがトレックに買収されてから8年たったわけだが、ここでひとつ総括してみてください。
A:もう8年もたったの?すげーなー。まあ、総括すれば、この買収はクラインにとっても、トレックにとってもあまり良くなかったんじゃないかな。結局、トレックはコストダウンのためにシェヘイリスを撤収し、従業員も解雇せざるを得なかったんだし。最近、シェヘイリス撤退の内情を知ったんだが、シェヘイリス時代にはあったクラインのオーラは失われたなーと思わざるを得ない。
B:そうかな、、、?
A:うむ。職人仕事とは、職人個別の存在が失われれば単なる「職人仕事のコピー」にすぎないのだよ。CNCで作った江戸指物のようなものだ。コンピュータが作る江戸指物、、どうだ?オーラないだろう?
B:はあ。
A:つまり、かつてクラインが築いたブランドイメージは失われつつあると解釈することができる。
B:トレックの戦略に誤りがあったと?
A:誤りなのか、意図的なものかはわからないがね。そうした過去のブランドイメージを意図的に崩し、新しいブランドイメージを作りたかった可能性もないとはいえない。でも、オレがトレック上層部だったら、シェヘイリス工場は残しておいて、少量生産のブランドとして存続させただろうね。伝説を意図的に残し、値段は高めにしてね、1台で10台分の利益を生むってやつよ。SevenとかMootsがやってることと同じってことよ。廃止するのはいつでもできるからなあ。まあ、幾分従業員や設備の減量化は行わざるを得ないが、、、そのかわり、最高品質のバイクを少量供給する、としとこう。
B:気持ちはわかるが、経営的にどうだろうね。だいぶ私情が入っているようですが。
A:いやいやいや、違うね。まさにビジネスだぜ。純粋に機械的な、、、あのな、シェヘイリスはクラインの企業イメージのコアの部分だった。職人の知恵、経験、言葉では表現できないさまざまな財産があったはず。それをあっさり放棄したのは、明らかに間違いだッ!(語気強める)。
B:あの、興奮しないで、、、気持ちはわかりますが。
A:こうした分野で経営の専門家たるトレックに説教するのも釈迦に説法かもしれんが、人的資源こそもっとも重要なリソースだというのに、なぜ切り捨てた?経験豊富なパイロット10人と、学校出たてのパイロット10人とでは総合力の和が全然違うだろ?
B:その比喩が適切かどうかはわかりませんけどね。
A:つまり、トレックは金のなる木を切り倒して、薪にして使っちまったってわけ。
B:では、今後クラインはどうしたらいいと思います?
A:トレックが親会社なんだから、トレックの思うままにしかならないけど、たぶんトレックはこのままクラインのブランドを持ち続けるだろうね。高価な買収をおこなったんだし。
B:タダでは手放さないだろうね。
A:もちろんだよ。オレがトレックだったらそうするね。そして、この数年間取ってきた戦略をそのまま、今後数年間も続けるだろうね。外見がほかのバイクとちょっと違う、高級感あるバイクブランドとして売っていくのだ。
B:まあ、それも企業戦略でしょうからね。
(*1)アルミには疲労における閾値がないので、疲労が蓄積していくことが知られている。そのため、主宰はポッキリいくことを心配しているのだが、レヴについてどのような防御策をクラインがとっているかは不明。Salsa Bicycleが2004年のInterBikeでレヴと同様の構造のチェーンステイをもつMTBを発表している。スカンジウムらしいが、、、、
(次号につづく)
以前の記事はこちらに移動しました。
こんなニュースがあるよ! というメールはこっちへ! 喧噪社