クラインの軌跡

クラインの設立以前から現在まで


2010年06月12日版

          【1 はじまりの頃】のTeam Superの塗装の記述の変更
          【2 独自規格への指向】 冒頭のバイク名を追加
          【9 2007年現在の状況】を【9 2010年現在の状況】とし、記述を変更
          【考察】 今後の展望に関する記述の変更

【1 はじまりの頃】
  ゲイリー・クラインは米国テキサス州クリーブランド郊外の農場に生まれた。最初のバイクはタイヤの太い「コロンビア」だったという。その後、両親とともに マサチューセッツ州ニュートン、そしてカリフォルニア州パロアルトへと移住した。そのころはチェスとテニスが好きな少年で、特にバイクにかける情熱はな かったようだ。
 1970年、彼はカリフォルニア大学デイビス校に入学した。キャンパスは自動車やオートバイの使用が禁止されていたこと もあり、彼は次第にバイクに興味を持つようになった。その後、MIT(マサチューセッツ工科大学)に転入することになる。そのころ、Fujiのロードバイ クでレースに出るようになり、学内の学生向きバイクショップを動かすようになった。
 そして、在学中の1973年に2台のアルミニウム製バイクを製作した。それは学業の一環、研究として、もっとも効率の良 いバイクフレームを作るという目的をもって行ったものである。彼は、大学時代はロード競技の選手として活動していたことも知られていることから、自分の趣 味を生かして研究を選択したといえる。
 その後、ゲイリー・クラインはMIT Innovation center の事業として、ジム・ウィリアムズほか1名の学生と、教授1名とともにKlein Bicycle Corporationを1975年に設立した。
  こうして、世界初のアルミニウム製のスポーツバイク会社が勃興したのだった。ジム・ウィリアムズとゲイリー・クラインは、ほかのメンバーからビジネスの権 利を買い取り、2人で共同経営をすることとなった。彼らはゲイリーの両親から借金をし、カリフォルニア州サン・マーティンに移った。ゲイリー・クラインの 両親が持っていた果樹園の排水機場が工房として使えたからである。
 しかし、しばらくの間は貧しい時代が続いた。そのためジム・ウィリアムズは共同経営からはなれて行った。フレームの売れ行きは芳しくなかったため、ゲイリー・クラインも、一時はバイク製作を止め、エンジニアリングの職を探し始めたほどだったが、最後の切り札としてフレームの価格を325ドルから 575ドルへと上げてみた。顧客はどうやら、もっと手の込んだフレームを欲している、、、そう気づいたのである。次第に注文は増え、フレームは2000ドル程で売れるようになった。(そのころ製作していたTeam Super(ロードバイク)には、のちに有名になる圧入BB、スムーズな溶接、PPG社のデルトロンないしはデュレタン等による塗装が行われていた。)
 そして、1980年、工房を西海岸のワシントン州シェヘイリスに移転した。
 

【2 独自規格への指向】
 1983年頃、クラインはカスタムフレームとして、アルミ合金にボロンによる補強を施した高価なロードバイク2モデル(Team Super, Stage)と、ボロンによる補強を省略したそれぞれの廉価版(Criterium, Advantage)の製作を行っていたが、塗粧を1色に、サイズを数種類に限ることで500ドル程度の低価格を実現したロードバイクフレーム(Performance)も展開していた。
  一方、1970年代前半ころから、米国西海岸では新たなムーブメントが始まっていた。そう、ゲイリー・フィッシャーやジョー・ブリーズらによって紹介され た、マウンテンバイクという、まったく新しいスポーツである。最初はクランカーと呼ばれた無骨なバイクは、ブリーズやリッチーの手により洗練されたものへ と変わっていき、1981年には、マイク・シナードのスペシャライズドが世界初の量産マウンテンバイクを発表し、次第に、世界にマウンテンバイクが浸透し 始めていた。
 こ うした状況を受けて、クラインもまた1983年に自社として初めてのマウンテンバイク、マウンテンクラインを発表したのである。クラインにとっては、これ がある種の転機となった。マウンテンクライン採用されたのは、アルミフレームはもちろんとして、内蔵ケーブルルーティング、角断面チェーンステイ、圧入式 BBである。
 内蔵ケーブルルーティングについては、泥による障害から変速伝達系を守るためのものであり、角断面チェーンステイは効率 の良さと頑健さを両立させるものだった。そして、圧入式BBはメンテナンスフリーを実現していた。こうした特徴は、のちのクラインのマウンテンバイク、 ロードバイクに受け継がれていく。
 

【3 独特なメーカーへの成長】
 このころ、ゲイリー・クラインとともにバイクの開発を行っていたのが、技術担当副社長ダリル ・ヴォスであった。ゲイリー・クラインは彼とともに、様々な独自技術を開発し、活発な特許取得活動を行っていった。その中には、極太のアルミフォーク・ユニクラインフォーク、今でも使われているタイヤパターン「デスグリップ」や、有名なバー・ステム一体型コンボ「ミッションコントロール」、それにサスペンション機能を持たせた「スマートバー」などがある。
  こうして、クラインは、バイク界において独自の位置を獲得しつつあった。つまり、すぐれた独自規格をもち、軽量であり、頑丈であり、メンテナンスフリーで あり、独特の塗装をもつ、他のバイクとは全く異なるルックスの高性能バイク、という位置づけである。こうした特徴に共鳴する熱狂的ユーザーが次第に増加し ていった。
 なかでも、ドイツのクラインのディストリビューターだったマーカス・ストークは、クラインへの傾倒のあまり、クラインの 特徴(マイクロドロップアウト、圧入BB)を取り入れた自らのバイクStorckを製作したほどだった。後に、マーカス・ストークはクラインから離れ、ド イツで独自のバイクを作り始める。

【4 モデルラインの拡張と問題】
  クラインに対して、ユーザーからの要望は次第に高まっていった。クラインはこれに応え、次第にロードバイク、トレールバイク、XCバイク、ハイブリッド、 女性用ジオメトリーのロードバイク、トライアスロンバイクと、モデルラインを増やしていった。中でも、肉抜き加工、専用のフォークとチューブ(いずれもボ ロン・カーボンで補強していた)を与えられたMTBがアドロイト(アドロワ)である。
 しかし、クラインは大きな問題を抱えていた。それは、セールススタッフの不在と、資金不足である。クラインは多数のモデ ルラインを抱えるようになったが、これらを売りさばくために用いていたのはテレ・マーケティングと呼ばれる手段だった。つまり、各地のディーラーと電話や ファクスで連絡をとり、品を納入する手法である。国土の広い米国では一般的な手段だが、大手メーカーの豊富な人的資源を活用した細やかなセールスには、ど うしても遅れをとってしまったことだろう。
 そして、業界で独自の地位を占めたとはいえ、その生産量は大手メーカーに比べれば微々たるものであり、技術開発にけっこ うな資金を必要としていたことに加え、いかにアドロイト(アドロワ)が素晴らしいバイクだったとはいえ、スポーツバイクのフレームのみに3000ドルを費 やせる人はごくごくわずかだったろう。
このため、クラインは慢性的な資金不足に悩まされていた。こうしたセールス面と資金面での弱点は、独バイク誌のゲイリー・クラインのインタビューでも示唆されている。
 

【5 第2世代への発展】
 ゲイリー・クラインとダリル・ヴォスの指揮のもと、活発な特許出願を行っていたクラインは、満を持して、そのラインアップを第2世代に移行させることとなった。1993 年秋、クラインはMTBのアティチュード・アドロイト、ロードバイクのクアンタム・プロに、全く新しいヘッドセット「エアヘッド」、MC-2というステア リングシステム、マイクロドロップアウト、グレーディエントチュービングなどの、画期的な新機軸を与え、94年モデルとして発表したのだった。
 これらバイクは、開闢以来この世に現れたバイクとは、本当にまったく違っていた。そう、なにもかもが!
  塗装もさらにグレードアップされ、蠱惑的なものとなった。なにより、バイクに付けられたプライスタグに誰もが驚くこととなった。また、パルスは、サスペン ション対応ジオメトリー、コンベンショナルなオーバーサイズヘッドを採用し、将来のミッドレンジのバイクの主力としてセールスが期待されており、エーアラ スについてはトライアスロン用バイクとして新たな道を切り開いたものだった。
 また、このころ、クラインはトレードチームONCEの依頼を受け、ツール・ド・フランスの山岳用ロードバイクの製造を委 託されている。これはクアンタム・プロをベースにした通称EPGクアンタムと呼ばれるスペシャルモデルであり、その超軽量性からオファーを受けたものであ る。ローラン・ジャラベールやアレックス・ツッレ(ツーレ)らがEPGクアンタムに乗って戦ったとされている。
  このとき、ONCEは、軽量に仕上げるため塗装は不要としたが、ゲイリー・クラインは「アルミバイクには素材特性上、塗装は必須である」という自らの考え を通し、EPGクアンタムを白色に塗って納入した。よくあるOEMのスペシャルバイクでは、ロゴは正規供給メーカーのものに差し替えられることがあるが、 EPGクアンタムのダウンチューブにはきちんとKLEINロゴが記されていた。
 こうしたことから、バイク乗りの間でのクラインの評価は、「独特であるが、非常に優れている」という、特別な地位を獲得しつつあった。
 このように、クラインの前途は洋々のように見えたが、セールス基盤の弱さと資金面の問題は、いまだ解決をみていなかった。
 

【6 財務状況の悪化】
 1992 年10月、クラインは廃棄物の処理について重大な違反を犯していたことから、ワシントン州環境局から242,000ドルの罰金の罰金を科せられた。ディグ リーザー、溶剤、切削油、塗料薄め液などの取り扱い違反を含む15の廃棄物処理違反を犯し、工場周辺の地下水と土壌を汚染していたのだ。汚染範囲の確定と 早急な改善が命ぜられた。また、罰金のうち、50,000ドルが猶予されたものの、残り192,000ドルが必要とされた。これは小規模な企業であったク ラインにとって、相当な負担となっただろう。
 さらに悪いことは重なるもので、花々しく新モデルが発表された1993年秋、ある事件が起こったのだ。それは、まったく新しいシートポスト固定システム「ジップグリップ」が引き起こしたものであり、これらはクラインの経営の根幹を揺るがす問題に発展していった。
  ジップグリップとは、エアヘッドのコレットシステムをヒントに開発されたもので、シートチューブの開口部に、回して締める金具がついたシステムであった。 つまり、この金具をゆるめたり締めたりすることで、シートポストの締め付けが工具なしでできる、という機能が売りであったのだが、ジップグリップの固定力 が弱く、シートポストが回転してしまうことがあるということが判明したのである(未検証だが、85kg以上の体重の場合、固定力を保持できないという情報 がある。)。
 これは非常に危険な欠陥であったことから、クラインは全ての出荷済みのジップグリップモデルをリコールしなくてはならなかった。リコールに要した経費がクラインの財務状況を圧迫していった。
 こ れに加え、1990年にロックショックスがフロントサスペンションを発表して以来、スポーツMTBには、フロントサスペンションが装着されるのがトレンド だったにもかかわらず、クラインが本格サス対応バイクとして用意していたのはパルスだけであったことも問題であった。主力モデルのアティチュード・アドロ イトにもサスペンションを取り付けることは一応可能だったが、使用可能なサスは限定されていたため、少数のユーザーの手に渡っただけだった。また、後に高 性能のサスが発売されても、交換することは難しかった(2005年現在は独Reset社のパーツによりオーバーサイズ変換アダプターが提供されている)。 こうして、サスペンションを欲するユーザーは次第にクラインから離れていった。

また、全てのバイクに独自規格の圧入BB(クライン・プレシジョンBB)を採用していたことから、汎用のBBが使えず、最新のクランクに対応できなくなってきていたことも、ユーザーのクライン離れの原因となっていった。
 
  こうして、クラインの販売量は1994年から1995年にかけて減少していった。クラインは、フルサスへの対応の遅れを取り戻すべく、1995年秋、フル サスペンションバイク マントラ・プロを開発したが、凝った独自ユニットなどの採用により、当然、高価格であり、また、ヘッドセットやBBが独自規格だっ たことなどから、販売数は限定されたものだった。
クラインは、次第にユーザーの支持を失いつつあった。
 
 

【7 トレックによる買収】
 1995年10月、ついにゲイリー・クラインはある決断をした。それは、自らの会社を、米国最大のバイクメーカー・トレックに売却することであった。同じころ に、トレックはゲイリー・フィッシャー、ボンレーガーの買収も行っている。さまざまなMTBのレジェンドたちを吸収することで、トレックは業界での地位を 向上させようとしていた。クラインはトレックの戦略に乗ったのだった。このとき、もしトレックのオファーがなかったら、現在、クラインというブランド自 体、存続していなかったかもしれない。
 トレックは当初、ゲイリー・クラインをKlein Bicycle Corporationの社長とし、シェヘイリス工場も存続させる方針としていた。ゲイリー・クラインは当面、人事や経理から解放され、開発に専念するこ とができる、と思われた。しかし、以前のような活発な開発と、独自規格の追求は、もはや許されるものではなかった。
 まず、トレックが行わせたのは、圧入BBの廃止と、デュアルサスペンションバイク・マントラの工程簡略化である。これに より、マントラは直線的なメインチューブとなり、非常に単純な形状のバイクとなった。また、買収後に開発された1997年モデルのアティチュード・アドロ イトには、もはやストラータ(またはユニクライン)フォークが装着されることはなかった。
 このころ、それまでクラインの技術面を牽引してきた技術担当副社長ダリル ・ヴォスも退社している。
 なお、1996年モデルから98年モデルまで、販売量を稼ぐために、ウォータールー(トレック本社)で生産されたハードテールバイクが、パルス(新)として、クラインのデカールを貼って販売されている。
 

【8 トレック戦略の影響】
  その後、しばらくの間、シェヘイリス工場は、トレックの指示の元でバイク製造を行ってきた。この期間は、独自規格が薄められた以外は、従来どおりのクライ ンバイクであったといえる。しかし、1999年モデルでは、他のメーカーのように、ビードのある、簡略化された溶接方法とするよう指示を受けた。それは、 おそらく、コストダウンのために、、、しかし、2000年モデルでは以前のようなスムーズな溶接面に戻っている。
 2001 年ころ、シェヘイリスでは、ポール・ターナー「マーヴェリック・アメリカン」の委託で、デュアルサスペンションのフレーム500本分の生産(クラインジャ パンのウェブサイトからの情報)を行っている。ターナーは、奇しくも、かつてクラインを販売不振に追いやった原因の一つであるサスペンション・ロック ショックスの生みの親である。
 2001年11月、トレックから衝撃の指示が出された。それは、2002年2月にシェヘイリス工場を閉鎖するというものであった。トレックの発表によれば、希望する従業員はウィスコンシン・ウォータールーのトレック本社に移ることができた(Mountain Bike Action誌はそのオファーの存在に疑問を呈している)。
  結局、何人がウォータールーへ異動したかはわからない。ともかく、2002年2月、予定どおりシェヘイリス工場は閉鎖され、ワシントン州セントレイリア地 域における60人あまりの雇用は消滅した。このときをもって、クラインは独立会社としての形態をほぼ失い、完全にトレックの一ブランドとなった。そして、 2002年5月、シェヘイリス工場に残されていた溶接機材・塗装機材・什器などはリアルエステート・オークションにより処分された。20年あまりにたって 存続してきたシェヘイリス工場は、ここで終末のときを迎えたのだった。
 

【9 2010年現在の状況】

  その後、クラインバイクはウィスコンシン州ウォータールーで生産されてきた。その後もゲイリー・クラインは社長としての地位を保ち、2005年モデルのサ スペンション付きロードバイク・レヴを開発したほか、マーヴェリックからライセンスを購入し、フルサスペンションMTBパロミノを開発した。バイク自体は 2002年モデルからは従来の6061アルミに換え、ZR9000というアルミ新素材を投入より頑丈に、軽量に、高機能となっているということだ。 そう、他のメーカーの作るバイクと同じように。

  クラインは、トレックの戦略下で、高級な塗装をまとった丁寧な溶接を行ったバイクとして、その役割を果たしてきたのだ。2004年、大手バイク会社パシ フィックと、トレック・マーヴェリックが特許を巡って係争したあおりでパロミノの生産を終えるといったトラブルがあったが、こうした穏やかな状況はしばら くの間、続くと思われた。

 しかし、2006年、状況は一変した。10月になっても 2007年モデルは米国では発表されることはなかったのだ。例年であれば、9月ころには新型モデルが発表されるはずなのだったが、、、米国での販売は、 13か所のディーラーでのみ行われることとなった。これはシェヘイリス工場閉鎖以来の衝撃的なニュースだった。ところが、まったく同時期、日本のクライン のディーラーは前年度と変わらず維持されていた。本国ではなく、この奇妙な現象は、ウォータールーが、クラインの販売を日本を中心としたアジア地域に限定 することとしたために起きたことだった。
 その後、2009年まではフルカーボンのロードモデルなどが投入されるなどして、日本を中心として販売が続けられたが、2010年モデルはついに発表されることはなかった。

 ついにその時がきた。ここに、トレック時代のクラインは終焉したのであった。

(了)


【考察】
 いままで書いてきたように、クラインは一時代を画したことは確かだ。しかし、それは比較的短い時期だった。具体的に言えば、1987年から1995年にかけてだろうか。
 それ以前は、資金不足にあえぎながら、ごく少量を生産するメーカーとしてであり、それより以後は、大企業の傘下として活動しているわけだ。むしろ、ごく普通の、典型的な小規模バイクメーカーとしての時期が長いことがわかる。
 クラインが独立企業として花開いたのは、わずかに8年くらいだったわけだ。案外短かった。まさに、オールドクラインの栄光は、独自規格が招き、その終焉もまた独自規格が招いたといえる。このことから、オールドクラインとは、独自規格と同義であるといっていい。
 結局、ゲイリー・クラインの20年にわたる事業は失敗だったのだろうか?
 たしかに販売面・資金面でつねにハンディキャップを抱え、財務的に成功したとはいえなかった。その結果、最終的には独立企業としてのクラインは消滅したのだから。
  しかし、こうも考えられるだろう。トレックによる買収以後は、トレックの強力な販売網のおかげでクラインの名が売れ、品質をある程度保持したまま、価格を 下げることができた。このことはゲイリー・クラインの「高効率バイクを作る」という思想を、販売台数の面で世界に広めることになったわけで、その意味では 成功だったともいえる。
 その結果、クラインは「他のバイクと同じく高機能なバイク」を作ることができるようになった。
 
ま た、クラインは、最盛期の8年の間に、バイク界に対し、様々な提案を行った。それはアルミによるファットチュービングであり、メンテナンスフリー思想であ り、インテグレーテッドヘッドであったわけだ。それらは、現在、ほとんどすべてのバイクやバイクパーツに取り入れられているのだから、その意味ではゲイ リー・クラインの勝利だったともいえる。
 さて、2006年の 米国販売の激しい縮小は、ウォータールーにおけるクラインの役割がある程度は終わったことを示していたといえるだろう。今や、クラインがトレックに利益を もたらすことはないということだ。米国ではトレック傘下のディーラー網を維持するほどの利益も得られなくなった。おそらく、ハイエンドのバイクはカーボン かチタンが主流になったことが大きく影響しているのだろう。カーボンバイク全盛時代になり、基本的にカーボンバイクを作る技術のなかったクラインは、次第 にお荷物的な存在になっていったのだ。ウォータールーはペイントのノウハウを吸収した後、クラインのカスタムペイントも廃止している。グレーディエント・ バテットの技術も、カーボン時代には無用のものになったのだ。

 似たようなバイクがあふれる現代の状況で、最も必要とされているバイクとは、どんなバイクだろうか。個人的には、それは他の追随を許さなかった、あの時代のクラインのようなバイクではないだろうか、と思う。
  あまりにも独特で、他と比較できず、トラブルメーカーであり、ある意味クレイジーだった。だが、前例を踏襲せず(そもそも、MTBとは、前例を踏襲しない ところから始まったものであった)、天才的なひらめきと論理的な思考という、じつに相反するものの融合した、奇跡的なバイクではなかったか、、、
 それはゲイリー・クラインに才能と幸運が開花した、限られた瞬間が生み出したものだったかもしれない。

 主宰としては、ふたたびクラインが、「他のバイクと同じく高機能なバイク」ではなく、「他の追随を許さない、独特かつ高機能なバイク」を作るメーカーとなることを望んでいる。しかし、どうやらそのような動きはないように見える。

 ゲイリー・クラインが、自らの裁量で理想のバイクを作ることを指揮する、そんな体制が復活する、、、そして、彼に、あの8年間のような、才能と幸運がともに訪れる時期が、ふたたびやってくることを夢見て、この稿を終わることにしよう。


※バイクの歴史上の間違いについてはご指摘ください。もし、さらに詳細を知っている方がいれば教えていただければ幸いです。

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